ランサーエボリューションファイナルエディションの発売が決まりました。初代ランサーエボリューションの発売が1992年10月ですから、約23年の「ランエボ」の歴史が終わることになります。私は幸いにもモータースポーツ専門誌の編集者、ランエボファン向けウェブサイトのライターとして、ランエボの登場からの変遷を見られる立場にあり、2009年に三菱自動車工業の協力を得て『ランサーエボリューション1~10』という本をグランプリ出版から上梓することができました。
三菱自動車工業とモータースポーツ、特にラリーとの関わりは非常に強いものがあります。三菱自動車工業設立前である60年代、海外ラリーにいち早く目を向けコルト1000F、1100Fなどでサザンクロスラリーへの参戦、三菱自動車工業が発足した70年代にはコルトギャランGS、ランサーGSRでサザンクロスラリーやサファリラリーを制し、日本車の高性能を強く世界に印象づけました。一時中断した後、ランサーEX2000ターボで復活。世界でも屈指の高速ラリーと言われた1000湖ラリーでP・アイリッカラが3位入賞したのは「ラリーの三菱」という言葉にふさわしいものでした。
三菱が本格的にWRC(世界ラリー選手権)に参戦をはじめたのはギャランVR-4でした。グループBというラリー専用に作られたマシンから、グループAという市販車をラリー用に改造したクラスに世界選手権タイトルがかけられたこともあり、モータースポーツに積極的な自動車メーカーが特にラリーに力を入れた時代となります。
そこで、一定の成績を挙げて後、さらにラリーで活躍すべく投入されたのがランサーエボリューション(本書では便宜的にランサーエボリューション1と表記してあります)です。もっとも、ギャランより一回りコンパクトなランサーのボディに、ギャランの4G63ターボユニットを強引に積み込むという手法だったために、フロントヘビーでじゃじゃ馬的なマシンになったことは否めませんでした。
特に国内のナンバー付き車両でダートトライアルやラリーに参加するユーザーにとっては、ライバルが195/65-15というサイズを使う中で185/65-15というワンサイズ細く小径のタイヤで戦わなければならなかったため不評もありました。三菱自動車は、そうしたユーザーの声に応えるように、タイヤサイズやサスペンションを見直したエボ2を投入してきます。これはモータースポーツユーザーにとって納得できる改良となりました。
以後、毎年のように改良が行なわれランエボは代を重ねていくことになります。エボ4ではAYC(アクティブヨーコントロールデフ)がリヤに装着されて、電子制御によって速さを増していく端緒となりました。エボ7ではACD(アクティブセンターデフ)が装着されることにより、ますます電子制御が強まっていき、それがファイナルエディションまで続きます。
本書では、ランサーエボリューションに至る以前の三菱のラリー活動から、初代ランサーエボリューションからエボ10の発売までの経緯、改良内容、モータースポーツでの活躍についてまとめてあります。ランエボの歴史の一端を切り取るべく執筆したものです。一度手にとっていただければ幸いです。
(訂正とお詫び:P23に「1000湖ラリーではP・アイリッカラによって......」とありますが、正しくは「1000湖ラリーではM・エリクソンによって......」です。お詫びして訂正いたします。)